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宮沢賢治『よだかの星』 存在することの罪と倫理について

 最近、社会学者の見田宗介さんの『宮沢賢治ー存在の祭りの中へ』を読んだ。自分にとって大切なことが書かれていたように思うので、ここに整理して書き留めておこう。見田宗介さんの本の中では宮沢賢治の作品が多々取り上げられているが、その中でも『よだかの星』を取り上げよう。ちょうどYoutubeに『よだかの星』の綺麗なアニメーションも見つけられたことだし。

 

 


 『よだかの星』はこんな一節から始まる。

 よだかは、実にみにくい鳥です。顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合でした。

 

 こんなにも醜い鳥であるのに、よだかはその飛び姿と鳴き声が鷹に似ていたため、「夜の鷹」を意味する「よだか」という名前が神から与えられた。そのことに不満を抱いた鷹から、よだかは「市蔵という名前に変えて首に札をかけろ」「明日までに変えなかったら殺すぞ」と理不尽な脅迫を受けてしまう。

 

 一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。 

 

 鷹の脅迫はよだかの存在そのものの否定であり、落ち込んでしまったよだかは、過去に善行をしても報われなかった記憶を思い出す。それは鷹の理不尽な要求と相まって<存在することの罪>をよだかに強く刻印するエピソードであった。よだかはふと、巣を飛び立つ。口を大きく開け、空を切り裂きながら飛んでいると、たくさんの羽虫や甲虫がよだかの咽喉に入り込んでくる。

 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。

 

 この時、よだかの<存在することの罪>の認識は決定的となった。それまでの鷹に虐められたことや、善行をしてもめじろに疎まれたことは、もしかしたら偶然の不幸の重なりであったかもしれない。しかし、自分が虫を殺さずには生きていけないという食物連鎖に依存した生き方そのものは、もはや変えることのできない、必然的な<存在することの罪>であった。
 そのことを認識したよだかは、その罪から自分を解き放つために焼身自殺を企て、太陽に向かって飛び立つ。見田宗介さんの述べている通り、焼身自殺は<存在することの罪>に対応した「この自分を跡形もなく消滅させたい」という願望の込められた自殺の方法である。
 

 その後よだかは、太陽にも、東西南北の星にも拒絶され、否定に否定を重ねられた後、神がかった力が湧き、宇宙へ飛び立ち、星になって燃え続けた。

 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。今でもまだ燃えています。

 

 食物連鎖の中で生きるという<存在することの罪>を抜け出し、星になって地球に光を注ぐようになったよだかは幸せだったのか。そもそもそれは幸せかどうかで評価できるものなのか。どこか咽喉が詰まるような美しさを残して『よだかの星』の物語は終わる。


 しかし私が引っかかったのは、よだかが焼身を目指す直前に、弟の川せみの所へ飛んでいったシーンである。

 よだかはまっすぐに、弟の川せみの所へ飛んで行きました。きれいな川せみも、丁度起きて遠くの山火事を見ていた所でした。そしてよだかの降りて来たのを見て云いました。
「兄さん。今晩は。何か急のご用ですか。」
「いいや、僕は今度遠い所へ行くからね、その前一寸お前に遭いに来たよ。」
「兄さん。行っちゃいけませんよ。蜂雀もあんな遠くにいるんですし、僕ひとりぼっちになってしまうじゃありませんか。」
「それはね。どうも仕方ないのだ。もう今日は何も云わないで呉れ。そしてお前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたずらにお魚を取ったりしないようにして呉れ。ね、さよなら。」
「兄さん。どうしたんです。まあもう一寸お待ちなさい。」
「いや、いつまで居てもおんなじだ。はちすずめへ、あとでよろしく云ってやって呉れ。さよなら。もうあわないよ。さよなら。」

 

 よだかは弟に「いたずらにお魚を取ったりしないように」と言う。ここには魚という弱者の視点に寄り添うような倫理がある。少しでも世界が良くなるようにという正義がある。
 しかし、その倫理は<存在することの罪>を認識した果ての、「この自分を跡形もなく消滅させたい」という欲望に駆動された倫理である。よだかが天に飛び立つ道すがらに、上の会話がなされたということがそれを象徴している。

 あぁーあ、どこか見覚えがあるぞ、と思った。弱者の視点に立ち、困っている人に寄り添いたい。しかし、困ってる人の状況が改善し、幸せそうになっていく姿を見ると、どこか自分だけが置いてかれてしまったような気持ちになる光景を思い出す。そんな時、自分にあるのは純粋な正義感や倫理感などではなく、「世の中くそだね」という厭世的な視点だけだったということに気づく。そんな視点に居続けたいというのは、「この自分を跡形もなく消滅させたい」という欲望に片足を踏み入れてしまっている。

いやぁ、困った困った。私は星にはなれそうにないし。さぁさぁ、どうしましょうか。

 

 

よだかの星 (日本の童話名作選)

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宮沢賢治―存在の祭りの中へ (岩波現代文庫―文芸)

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