読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

a m a z o n . c o . j p さんとの共依存生活

欲しい物リストを公開することが将来の夢です

Cocco『有終の美』と田中美津『いのちの女たちへ』―そのエロスについて

 2016年8月24日、Coccoのニューアルバム『アダンバレエ』がリリースされた。アルバム名の「アダン」とは沖縄に生えているトゲのある植物の名称であり、沖縄戦ひめゆり学徒隊がアダンの陰に隠れて戦ったという歴史的記憶から、「アダン」はCoccoの中でサバイバルの象徴となっている言葉である。その「アダン」に、Coccoの人生の中で肯定的なイメージであり続けた「バレエ」という言葉を繋ぎ、今を生きる全ての生存者(サバイバー)に向けて唄われたのがニューアルバムの『アダンバレエ』である。
 
 
 そんな『アダンバレエ』の中に収録されている、『有終の美』はMV(ミュージックビデオ)も制作され、ただでさえ視覚的イメージを喚起するCoccoの唄に、明確なイメージを与え、生き生きとした躍動感を表現している。MVを手掛けた株式会社ナラの樹の今井伴也氏は「美術デザイナーとして最も力を入れたのは、Coccoがそのまま宇宙空間に飛び出したかのような満天の星々の中歌うシーンで背景にした、この銀河だ」と語っており、このMVはアーティストにしては珍しく、Coccoが主導する形で創られたそうだ。*1
   このMVを初めて見た時、壮大な銀河を背景に唄うCoccoの姿に、宇宙的なエロスとでも言うべきもののようなものを感じ、私にある一冊の本が思い出された。田中美津の『いのちの女たちへーとり乱しウーマン・リブ論』である。
   田中美津は、1943年生まれの女性で、男女雇用機会均等法も無く、女性が職場でお茶汲みだけをやらされていたような1970年代に、ウーマンリブ*2運動の伝説的な指導者として活躍した。1971年には「ぐるーぷ闘うおんな」のリーダーとして新宿に「リブ新宿センター」を設立し、同センターは女性の駆け込み寺として機能していたそうだ。上記の『いのちの女たちへーとり乱しウーマン・リブ論』は、そんな運動の最中の1972年、当時29歳の田中美津氏が書き上げた本であり、偶然にも『アダンバレエ』がリリースされる2日前の8月22日に新版が発行された。『フェミニズムの名著50』にも取り上げられ、平塚らいてう与謝野晶子高群逸枝山川菊栄などの著書と並び、今でも闘う女性のバイブルとして語り伝えられている。
 そんな『いのちの女たちへーとり乱しウーマン・リブ論』には、ある歴史的局面の1つの社会運動には還元し切れないような、硬い言葉で言えば〝思想〟とでも言うような、田中美津独特の思索が宿っている。
 Coccoの『有終の美』のミュージックビデオを見た時に私が感じたのは、この田中美津の思想に共振するものである。まずは『いのちの女たちへーとり乱しウーマン・リブ論』に収められた田中美津の思想、特にそのエロス論を掴み、Coccoの『有終の美』について考えてみたい。
 
 田中美津によって書かれ、ウーマン・リブ運動の記念碑的マニフェストとも呼ばれるようになった「便所からの解放」と題されたビラを自家引用しながら、著書の中で田中美津は述べる。

 男にとって女とは母性のやさしさ=母か、性欲処理機=便所か、という二つのイメージに分かれる存在としてある。全体である対象(女)の二つの側面―母性(やさしさ)、異性(SEX)とに抽象化して、それぞれに相反する感情をわりあてる男の分離した意識とは、単婚が娼婦制、奴隷制と併行してあったという人類史を背景に、一夫一婦制が性を卑しめ、性と精神を分離させる意識構造によって支えられていること、更にその意識下における私有的な母子関係が、一方において母性のやさしさに対する執着をうみ、もう一方でそういう母親が父親とオトコとオンナの関係をもつことで自分が生れた事実に対する嫌悪をうみだすという、女に対する背反する二重の意識を植えつけるのだ。男の母か、便所かという意識は、現実には結婚の対象か遊びの対象か、という風に表れる。結婚の対象として見られ、選択さるべきSEXに対し、見ざる、聞かざる、言わざるの、清純な?カワイコちゃんとして、女は、やさしさと自然な性欲を一体としてもつ自らを裏切り抑圧していく。(パンフレット「便所からの解放」より) 
 「母」も「便所」も共に男のイメージの中に生きる女、<どこにもいない女>としてさまよう宿命を負っている。…しかし、所詮他人の目の中に見出そうとする自分とは、<どこにもいない女>であって、その<どこにもいない女>をあてにして、生身の<ここにいる女>の生きがいにしようとすれば、不安と焦躁の中で切り裂かれていくのは必然なのだ。媚びるとは他人の価値観の中に己れを売り渡すことであり、メスとして尻尾をふって生きる女の、その媚の生が、絶えまない存在の喪失感に脅かされるのはそれ故だ。 (p12-14)
 
 「やさしさ」と「自然な性欲」を併せ持つ1人の女が、「結婚の対象」=「母」か「遊びの対象」=「便所」に分割され、どちらかに自分を当てはめるよう強いられる。しかし、「母」も「便所」も男のイメージの中の<どこにもいない女>であり、結局は<ここにいる女>を抑圧してしまうことになる。それが田中美津にとって、今よりもさらに男女差別の激しかった70年代日本の女性問題の中心であった。そんな自己否定を要請する<どこにもいない女>に対し、田中美津が対置した<ここにいる女>とはどのようなものか。
 

 一人の人間の中には、互いに矛盾し合う本音が常に同居しているのであって、そのふたつが合わさったところが<ここにいる女>という存在なのだ。女から女たちへという想いも本音、しかし、ともすれば女から目をそむけたいという想いがあるというのも本音――、リブは常にふたつの本音の間でとり乱すその「現在」の中にこそ、生き難さの歴史の中で、さまざまに屈折してこざるをえなかった、生ま身の女の、その確かな温もりが胎まれている。とり乱す、そのみっともないさまこそ、<ここにいる女>のまぎれないその生の証に他ならない。(p60)

 

  この、矛盾を抱えてとり乱す<ここにいる女>を、田中美津は自身の経験からさらに以下のよう説明する。
 

 リブを運動化して間もない頃、それまであぐらをかいていたくせに、好きな男が入ってくる気配を察して、それを正座に変えてしまったことがあった。あぐら革命的、正座反動的みたいな偏見から己れを嘆く訳ではないが、しかし、楽でかいていたあぐらを正座に変えてしまった裏には、男から、女らしいと想われたいあたしがまぎれもなくいたのだ。その時、もし、意識的にあぐらか、正座かを己れに問えば、あぐらのままでいいと答えるあたしがいたと思う。しかしそれは本音ではない。その時のあたしの本音とは、あぐらを正座に変えてしまった、そのとり乱しの中にある。常日頃に思うことは、ヒトが己れを意識的にとらえられる部分とは、云ってみれば氷山の一角にすぎず、しかも、往々にしてそれは「たてまえ」としての己れであることが多いようだ。あたしたちの本音の、その大部分は無意識の中に隠れていて、しかも人間は無意識で成り立っていると云ってもいい位なのだ。女の場合、その無意識を形づくっている核心に、女は女らしくがある。つまり、<女は女らしく>という論理は、本来たてまえであるにもかかわらず、そのたてまえは女の中に深く血肉化されていて<無意識>という意識を形づくるまでになっているのだ。あぐらから正座に変えた、そのとり乱しの中にあるあたしの本音とは<女らしさ>を否定するあたしと、男は女らしい女が好きなのだ、というその昔叩き込まれた思い込みが消しがたくあるあたしの、その二人のあたしがつくる「現在」に他ならない。(p59

 

 田中美津の思想は、完全に首尾一貫していて決してとり乱すことのない<どこにもいない女>をめざすのではなく、矛盾をかかえて「とり乱す」ような<ここにいる女>という「現在」を直視し、そんな自己の解放からはじめようとするものである。これが著書の題名にもなっている「とり乱しウーマン・リブ論」の核心である。それは男性社会によって<どこにもいない女>を目指すことを強いられていた自己否定的な自己から、矛盾を抱えた<ここにいる女>を受容していくという、自己否定的な自分をも受容した上での、自己肯定的な自己への転換である。以下の言葉にはその転換が端的に示されている。
 
 あたしはリブに出会って初めて、ダメな自分の、そのダメさをいとおしむ気持ちを知ったのだった。たとえ石ころみたいな女でも、己れあっての世界であることに気付きさえすれば、未来という名も、希望という名も、己れの中に見出しえるのだ。
 いってみれば運悪く蹴つまずいてしまった女が、誰か助け起こしてくれるんじゃないかと、長い間惨めったらしく待っていたが、結局自分で起き上がるしかないと気づいて、このあたしがクズであるハズないじゃないか!と立ち上がったのがあたしのリブであった。(p124)

 

  誰か私を助け起こしてくれるんじゃないか、と惨めったらしく待っていた相手は誰かと問えば、田中美津にとって、あるいは多くの同時代の女性にとって、それは男であった。正確に言うならば、シンデレラストーリーに出てくるような理想化された男性、<どこにもいない男>を待ち望んでいたのだ。そんな自分を諦め、結局自分が起き上がるしかないと立ち上がったのが田中美津のリブだった。

 
 <どこにもいない男>への期待からとり乱す自己の受容へ、<どこにもいない女>から<ここにいる女>へ、自己否定から自己肯定へ。これまで見てきたこれらの転換と並行するように、田中美津のエロス論が立ち上がってくる。オルガスムスからエロスへという形で。
 

我々は女の解放を性の解放として提起する (p264)

 ここでは詳しく立ち入らないが、 幼少時に年配の男性から性的虐待を受けたという経験も大きく影響し、田中美津にとって女性の解放とは必然的に性の開放でもあった。 

 

 己れを男のイメージの中に売り渡し、その<どこにもいない女>と生身の<ここにいる女>との間で切り裂かれるという、己れを己れで裏切ってきた女の歴史性であれば、そのオルガスムスも又「裏切られたオルガスムス」以外のものではない。(p16)

 

 あたしの<男らしさ>幻想は常に、汚れた自分を抱きとり、許してくれる男というイメージの中に存在していた。…そのオルガスムス願望と、男らしさ幻想はいつも漫然としていて、汚れた自分がその極みにおいて浄化される、そのような男との出会い、そのようなオルガスムスとの出会いこそが、かつてのあたしの最大の願いであった。
 オルガスムスと融け合う中に、宇宙との融け合い、限りなく解き放されて飛翔する己れへの期待があった。そして、その生命限りの燃焼は、云うまでもなく死と裏表になったイメージとしてあり、生ききるということばは、己れの中に天国/地獄を胎んでいく、そのような瞬間を極めたい願望として、それはあった。今想えばそれはエロスへの希求であった。(p118)
 
 ここでは、<どこにもいない男>への期待からとり乱す自己の受容へ、という転換と呼応するように、オルガスムスからエロスへ、という転換が描かれている。田中美津にとって、オルガスムス願望とは「宇宙との融け合い、限りなく解放されて飛翔する己れへの期待」「死と裏表になったイメージ」としてあり、「己れの中に天国/地獄を胎んでいく、そのような瞬間を極めたい願望」であった。その願望が<どこにもいない男>への幻想と漫然としてあった。しかし、「今想えばそれはエロスへの希求であった」と、かつての自身のオルガスムス願望を間違いであったかのように斥けている。オルガスムス願望と混ざり合っていた<どこにもいない男>への幻想を切り捨てた後、何が変わったのか。田中美津はオルガスムスからエロスへの転換の根拠をどこに見出したのか。それは自身の身体の中にある「子宮」という自然と、うつむいていた日々に自然とコミュニケートしたという原風景であった。 
 
 そのむかし、人の目を恐れてうつむいてばかりいた日々、あたしが唯一思いっきり心を広げられる相手は「自然」だった。祖母から、自然には隠れる生命があること、その生命を慈しむことを教えられたあたしにとって、海や花や木々、雲、虫、あらゆるものが、コミュニケートの対象としてあった。
 それらに向かって生命かぎりの想いを、祈りを凝固させる時、あたしは危い目くるめくような緊張感と共に、エクスタシーにも似た感じが、足元から涌き立ってくるのを知った。他の物は一切念願から離れ、ふたつの魂だけが、己れは己れをもって対峙した。呼応し合った。なつかしいような、哀しいような、透きとおって来るような、それら様々な想いの中で、あたしは花であり、木であり、風そのものであった。
 己れにものごとを引きつけてコミュニケートする方法を、あたしは屈折した日々の中で知ったのだった。あたし以外には慈しむ者もない、打ち捨てられた生命への、心かぎりの愛着が、あたしにそのような方法を体得させたのだった。あたしの「原風景」はそのような方法論の中でイメージを形づくってきた。
 さらに言えば、あたしにはむかしから出会いは全て一期一会であるという想いがあって、その瞬間瞬間に生ききっていきたい願望が強くあった。惨めであればある程、明日にはなにか良いことがあるのではないかと期待をかけがちだが、それがいやだった。そんな期待は、より惨めったらしい結果を残すだけなのを、体験的に知っていたから。今日限りの生命と想えば、それは何者にも替えがたいいとおしさをもって輝くのであった。
 その一期一会という想いが、花や木に真向かった時の、あたしの自己凝固力に力を添えたのかもしれない。そして又、あたしのオルガスムス願望が、過去・現在・未来をひとつ宇宙として己れの中に胎み、そこに於て、ギリギリにその生命を燃焼しきるイメージとしてあったのは、出会いというものを一期一会にとらえて、心かぎりにいとおしみたいという、その想いあってのことに他ならなかった。
 女の総体性が、拡散に、つまり己れの中の自然に固執し続ける、そのような自己凝固を伴ってあるというあたしの「直感」は、もの想う子宮の復権とは、自然の生命力と己れをひとつにしていくこと、という「直感」と結びついてある。<繰り返し>、つまり人間との、自然との数多くの出会いの中で女は常に、新鮮であり、常に甦る可能性をもって存在してるのだ。その源泉は、女の子宮の自然、その恐怖、その生命力にある。人間、恐怖があるからこれで少しはまともなんだ、という想いはここから導き出されてある。つまりあたしの言う恐怖とは交通事故や痴漢のそれではなく、己れの子宮の自然を指している。…中絶、出産、毎度の生理のたびごとに、己の子宮と、その恐怖を、その自然を、その生命力を共有していかねばならない女は、その都度、今までいかに生き、これからいかに生きたいかを、自然から問われる存在としてある。女は自然と呼応して生きているのだ。(p181-182)

 

 女の子宮という自然を源泉とし、過去・現在・未来をひとつの宇宙として己れの中に胎み、自然の生命力と己れをひとつにしていくこと。自然と呼応して生きていくこと。

 それは、<どこにもいない男>に期待し、それに合わせて<どこにもいない女>を演じ、自己否定的に生きる生き方―宇宙の遥か彼方に光り輝く星をつかみ続けようとする生き方―とは対照的に、<ここにいる女>の子宮の自然を源泉に、自己肯定的に生きる生き方―自分の中に宇宙を胎み、自然と呼応していく生き方―である。

 

 ここまで田中美津の思想を簡単に見てきたが、この田中美津に共振するような思想とでも呼ぶべきものが、Coccoの『有終の美』には感じられた。まずは『有終の美』の歌詞を進行に沿うように見ていこう。

 

もう少し このまま見ていたいんだ 茜色 果てるまで

負けないように 震えないように 回らない車輪

無理に回しても 誰に返しても どこへも行けない

あなたの声 聞きたくて どこかに光る 見えない星

あなたの嘘 やさしい嘘 いつかは光り 輝く空に

 

 曲の前半部では、どこかに光る見えない星である「あなたの声」がいつか聞こえることを、「あなたの嘘」がいつか光り輝くことを、茜色が果てるまで待ち見届けようとしている「私」、もう少し正確に言えば、何かに負けないように、震えないように、自分の意志以上の何か大きな力によって、茜色が果てるまで待つことを強いられているような、「どこへも行けない」「回らない車輪」である「私」の姿が描かれている。

 

美しいものばっか 差し出してみんな消えた お日様も 雨粒も

枯れないように 途切れないように 忘れた頃

転がり出すだろう 時はゆくのだろう 止められやしない

あなたの夢 赤い糸に 絡めて止めて しまわないで

あなたの嘘 優しい嘘 ほどいて泣いて ないで行って

 

 後半部では、夜空が輝き出すためには足枷となる「お日様」や「雨粒」という「美しいもの」を差し出したら全て消えてしまい、それらを取り戻すために必死になっていると、どこかに光る見えない星である「あなたの声」や、いつかは光輝くであろう「あなたの嘘」を望んでいたことなど忘れてしまい、そのとき、今まで決して動くことのなかった車輪が初めて転がり出す様が描かれている。それはもはや「止められやしない」ものであり、「あなたの夢 赤い糸に 絡めて止めて しまわないで」と「あなた」を「私」から解き放つような、「あなたの嘘 優しい嘘 ほどいて泣いて ないで行って」と、「あなた」を「私」から突き放すような歌詞が続く。

汚れたスカート ひるがえして 胸張って行くよ

いつだって きっと ちゃんと 笑ってるよ 

私は 大丈夫 

  曲のクライマックスでは、見えない星を求めて、美しいものを差し出す中で汚れてしまった「汚れたスカート」をひるがえし、「私は大丈夫」と自分に言い聞かせながら「私」が自立して歩み出していく姿が描かれている。

 『有終の美』は「私」の自立の物語である。<どこにもいないあなた>を夢想し、<どこにもいない私>という美しいものを差し出す、それに必然的に伴う<ここにいる私>の否定という自己否定的な生き方から、<どこにもいないあなた>と<どこにもいない私>を、それを絡ませた「赤い糸」から断ち切り、<ここにいる私>を受け止めて行く自己受容的な生き方へ。

 そしてそれは田中美津の思想に見られたような宇宙論的なエロスを内包している。『有終の美』のMVを見てみよう。


Cocco 「有終の美」 Music Video+メイキング

  

 『有終の美』のMVは、広大な銀河を背景に、何かを待ち望むように静止しているCoccoの描写から始まる。Coccoとその背後に広がる銀河は、<どこにもいないあなた>を夢想する「私」と、<どこにもいないあなた>が決して手の届かない星であることを象徴している。曲の進行に従い、歌詞の中の「私」が自立していくと同時に、バレリーナであるCoccoが生の躍動を取り戻していくように踊り出し、曲のクライマックス、「私は大丈夫」と、「私」が自己を受容した瞬間、バレリーナのCoccoから銀河が溢れだす。それは田中美津がエロスの中に見出していた、過去・現在・未来をひとつの宇宙として己れの中に胎み、自然の生命力と己れをひとつにしていくという自己肯定的な生き方を象徴するようなシーンである。

 このように、『有終の美』には、田中美津が見出したエロス―手の届かない星をつかもうとする自己否定的な生き方から、宇宙を胎んだ<ここにいる私>を源泉に自然と呼応していく自己肯定的な生き方へ―が展開されている。そしてそれは、Coccoの個人史に血肉化された形としても表現されている。

 MVの中では、2人のCoccoが登場する。<歌うたいとしてのCocco>と<バレリーナとしてのCocco>である。MVの中で、<歌うたいとしてのCocco>が見えない星が光るのを待ち望んでいたのであり、クライマックスにおいては<バレリーナとしてのCocco>の内から銀河が溢れだしたことから明らかなように、<歌うたいとしてのCocco>は届かない星に手を伸ばし続ける<どこにもいない私>に、<バレリーナとしてのCocco>は宇宙を内に胎む<ここにいる私>に対応している。

 デビュー当初から一貫して、Coccoにとって「歌」は一つの自己否定によって成り立つものであった。歌において Coccoは<どこにもいないあなた>に向かって愛を叫び続けてきた。それは文字通り<ここにいる私>の身を削るようなものでもあり、だからこそ痛みと同時に<ここにいる私>を超えた普遍的な美しさを発揮し、多くの人を魅了し続けてきた。他方で、そんな自己否定を伴う歌とは対照的に、Coccoにとってバレエとは自己肯定の象徴であり続けてきた。Coccoはデビュー当初から<歌うたいとしてのCocco> と<バレリーナとしてのCocco>の間で揺れ、引き裂かれるような存在であったのだ。

 田中美津にとって、エロスとは「死と裏表になった」ものであり「己れの中に天国/地獄を胎んでいく」ものであった。自己否定的な自己か、自己肯定的な自己か、の二者択一ではなく、その間でとり乱す<ここにいる女>そのものを受容すること。手の届かない宇宙に光り輝く銀河か、自己の中に広がる宇宙か、の二者択一ではなく、手の届かない宇宙に光り輝く銀河こそが、まさに自己の中に広がる宇宙の銀河でもあるような、裏表として反転する世界をその総体として受容すること。それがエロスであった。

 「汚れたスカート」を投げ出すのではなく、ひるがえし、「汚れ」を自己の中に保持したまま胸を張って行く「私」とは、<歌うたいとしてのCocco>と<バレリーナとしてのCocco>を裏表として、その間でとり乱す「私」を起点に、この宇宙の闇と光をその総体のまま受け止め、胸を張って行くCoccoの姿でもあるだろう。そこには、田中美津がエロスと呼びならわしたものと通ずるものを感じた。『有終の美』はまさにCoccoにとって、これまでの人生を総括する有終の美のような唄であり、そんな自身の生き方をさらけ出すことで、今を生きる全ての生存者(サバイバー)に向けて唄われた唄であると思う。

 

 

 

アダンバレエ (通常盤)

アダンバレエ (通常盤)

 

 

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

 

 

*1:Cocco「有終の美」MV~スペシャルな存在~ – ナラの樹

*2:ウィメンズ・リベレーション(women's liberation)の略。1960年代後半に巻き起こった世界的な女性解放運動の波